それらの文体を確立させた5人の作家の生き抜いた時代を中心に、
文学とアンデンティティの関係性を探る。
その進め方ももちろん、哲学的に。
そして、叙情的、時には創作的に。
文学には学問としての条件があって、
それは研究体調として成りうるかどうか・・・とか・・・。
それが知的な価値を内包しているのだとか・・・。
そんな意見は聞き飽きた。どうだっていい。
もっとシンプルに大切なことがある。
文系の中に、文学部があるのは分かりやすいけど、
理系の中にも文学研究科はあってもいいかもしれない。
そういう力のある人たちが文学界にも手をのばしてくれると、
一気に展開が面白くなりそう。
もちろん、はじめはケンカみたいになるだろうけど。。
それから、ゲームと文学の感覚が似ているとも言われているような最近になっても、
まだ、純文学だけの特別な地位ばかりを主張したい、というか、
純文学だけが「文学」であると言わんばかりの勢いを持った人類が居るのは事実。
その人たちは、何かを求めることを忘れて、
失われていくものの寂しさに耐えかねて、
文学を、ホルマリンづけのように、その時代の自分の栄光と合成させて、
同時の状態をどうにか保とうとしている。
っと、いつの間にか、何に対しての愚痴なのかわからないけど、
暴走が始まりそうなところで急いで我を探しに行く。
ルパンと次元くらいの争い方がいいとか、少し想像する今日このごろ。
スーツ着て、ネクタイしめて、ヒゲそって、髪の毛かためて、
有名な会社の上の方の職に就いてもね、中身はもっと爆発したいんよ。絶対的に。
その表現の仕方が、仕方なく穏やかに見える領域から抜け出せることもなく・・・、
アガメタテマツルべき対象が存在しちゃっているから、
その人に近づくだけとかmその人の近くで自分色の「何か」、
ほんの少しの小さな小さな主張ができたという自分を、
「できないだろう」とみくびっている他人に知ってもらいたくて仕方ない。
そんな自分自身を、この世界になじませようとして、そしてそれを保とうとして、
生存できるだけの精神を養っているんだよね、大変。
逆に、いかに、このシステムから逃れた「ところ」で、自分自身の存在価値を見出すか、
ってことに、こだわりすぎている人もいる。
本当は、この社会のシステムの中で主張したいんだろうけど、
それがチョット苦手で生きづらいようで。
長くなってツカレタから、また近いうちに次回!。
つづく。
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